2013年2月1日金曜日

阪神大震災の頃を思い出して その2

1995/1/18午後,阪急西宮北口駅に到着.何時頃だっただろうか.電車を降りた人々はそれぞれの方向へ.

今日はそのときの道歩いてみようと思い立った.出来るだけ思い出しながらあの日の道を.

私は南口から駅前へと出た.まだ当時はこの道路の部分に商店が建ち並んでいた.昔あった西宮球場へ向かうメインストリートなので道沿いにちょっとした商店街を形成していた.高校時代に何度か行ったカレー屋「サンボア」の建物も見えた.

今は西宮球場も解体され跡地に阪急西宮ガーデンズが開業し,かつての商店の並びは丸ごとなくなり,その場所は広い道になっている.まったくの様変わり.

私は今津線南行きホームの先にある踏切を渡り西に進んだ.多くの人は国道2号線まで出ようとするのか直進していく.


踏切の名前は球場前踏切,球場がなくなっても変わらない.かつてあったものが痕跡化していくのを見ているようだ.

今津線も高架化したが,車庫への入出庫のために地上線が残っているのだ.


津門川の手前の交差点.ここの橋も球場橋.
このあたりは比較的被害は少なかった印象.

津門川.

どんどん西に進む.

東川を渡ったこのあたりから被害が大きかった印象.

車と家がカラーコーディネートされた物件を発見.

耐震補強っぽいフレームを発見.


夙川に到着.

あのときも,阪急とJRの間を西に進もうとくねくねと歩いているうちに夙川にかかる羽衣橋に辿り着いた.多分同じ道を歩いていると思う.


夙川駅前を通過.当時阪急のテナントビル,夙川プラザが線路に倒れこんでいたのが印象的だった.

夙川教会.山手幹線(当時はそう認識してなかったが)は夙川駅前からこの教会前までの短い区間が完成してただけ.


このあたりは震災後の完成.当時はこのあたりから完璧にぺしゃんこに潰れた家屋を見るようになった.

JRの芦屋変電所.


神戸臨港線等の建設工事時に東海道線から引込み線が作られていたそうだ.詳しく書かれたblogを見つけたのでどうぞ.
http://www.hotetu.net/haisen/Kansai/120410ashiyahikikomisen.html by 歩鉄の達人

山手幹線を後ろに振り返る.

夙川方.道も家もまったく新しくなっている.昔を思い出すことは不可能だ.

ここから芦屋までの間はどこを通ったか区画も変わっており不明確だが,歩いていると突如芦屋駅前に出たのを覚えている.

あの日の芦屋駅前は停電で明かりはすべて消え,車も少なく人通りもまばら.もちろん電車は走っておらずゴーストタウンにいるような恐れを感じた.

芦屋川.


街角に布袋さんを発見.当時もこうして街を見つめていたのだろうか.

古くからありそうな屋敷の門.建物は最近解体されたのかな? 郵便受けには去年秋くらいまでの広告が入っていた.


あの車止めまでが芦屋市でその向こうが神戸市.市境で微妙に道が雁行している.

神戸市に入ったところ.六甲の山並み.


山手幹線,森北町.ここから実家まではこの道を一直線.

歩道橋に上がってみた.東方.


西方.山幹が神戸-芦屋市境でつながる前は車はここで南の国道2号線へ合流した.

なんだか昔からありそうな炉ばた.


いつもいのししちゃんが山からおりてくる天上川.
こんな感じ.

あの日ラジオを聴きながら歩いているとき,六甲アイランドのガスタンクからガス漏れでなるべく山側を歩いて下さいという放送を聴いたのを覚えている.

ゆるやかなカーブを描いて,あの坂の上が住吉川の堤防.

道の左手は以前は市立神戸商業高校があった敷地.神商は赤塚山高校と統合して今は六甲アイランド高校となっている.跡地は開発されて大規模なマンションになっている.


右手には野寄の震災用ポンプ格納庫.

震災の痕跡.歩いていて思うがあまり震災を思い起こさせるものがあまりない気がする.

住吉川を水道橋で渡る.

千刈貯水池から港町神戸まで水を運ぶためにつくられた水道管.このずっと西の先に水道筋商店街があります.


南方向.魚崎方面.

秋には紅葉が美しい弓弦羽神社. 住吉川を越えると私のテリトリーという気がするな.子供の頃自転車で遊びに来たところだ.



車と樹木がカラーコーディネートされた物件を発見.

このあたりでJR東海道線の高架橋が崩落しているのを発見して目を疑ったのを覚えている.復旧に年単位と覚悟したものだった.

あともう少しなところでiphoneの電池が切れたので国道沿いのもっこすにラーメンを食べに行ってしばし一緒に充電.

石屋川越えに再挑戦.


ここのジョイントの継ぎ目はかなり段差があった.しかし,どの車も躊躇せずむりやり越えていってた.みな移動するのに必死だった.


石屋川堤防上からみた灘区側.わが町,六甲にやっと到着.

しかしあの日のここはあまりにも悲惨な状況だった.高徳町1,2丁目は街区がほぼ壊滅状態に見えた.この先にあるわが家の状況も覚悟した瞬間だった.


高徳町1丁目の水道筋.

高徳町1丁目の山手幹線.


1/18の夕方,自宅に到着.思ったよりちゃんと建っておりひと安心したが建物が傾いて玄関は開かず,瓦が散乱.よくみるとモルタル外壁にはいくつもの亀裂.だんだん暗くなってきたので,入るのをあきらめて近所の家で懐中電灯(肝心な物をもっていないw)を借り,母のいるはずの避難所を探しにいく.

しかしすれ違いでいとこが山越えで車で迎えに来てくれていたようで,明石に行くというメモ書きを掲示板に発見したのだった.

鷹匠中学校.母は震災当日ここに避難していた.左手の体育館は当時の建物.この建物以外の校舎はほぼすべて震災後解体され建て替えられている.


現鷹匠中学校


たそがれのJR線.灘区.

歩いたルート

結局,自宅についたあとそのままコーナンまで買い物に行き,阪急西宮北口駅から阪神大石駅までトータル15kmあまりを4時間半くらいかけて歩きました.
あの日は写真も撮らず,寄り道もせずせかせかと歩いたので多分3時間弱くらいで歩いと思います.

2013/1/20に散歩.

4 件のコメント:

  1. 布袋さんと炉ばた屋さんが印象的。

    布袋さんは小学校の頃、この近くの
    歯医者に通ってたのでいつも見てましたw
    まだ座ってはるのですね。

    炉ばた屋さんは私が20歳の頃、当時の
    マスターが深江のパチスロにハマってて
    昼定食の値段がだんだん高くなってたなww

    震災と関係の無い話でスミマセン…

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    1. やはり歴史のある炉ばた屋さんだったんですね. バカづきして安くなるなんてことはないんでしょうねぇw

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  2. 私は当時、加古川に暮らしていて職場が東灘でした。必死の思いでどうにか17日の21時ごろに職場に出勤して、次の日からは救助活動に従事しました。その内容はここでは控えさせていただきます。
    そうそう、石屋川のもっこすは震災後、無料でラーメンを提供していましたね。思い出しました。天井川のもっと下の方は焼け野原になっていました。何もかもが無くなった神戸、現在のように復興して本当に良かったです。

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    1. 貴重な思い出ありがとうございます.みなそれぞれ必死でしたね.失ったものも多かったですがここまで復活できたのは地元市民の努力ももちろんですが周辺都市のみなさん,全国から来て頂いたボランティアの皆様のお陰やと思います.

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