2019年2月10日日曜日

「1945年の神戸」建物疎開・簡易貯水槽と三宮神社付近

先日こうべまちづくり会館で,シンポジウム「1945年の神戸 空から見た戦争と市街地」が開催され私も興味深く拝聴させて頂きました.
登壇者は3名でそれぞれテーマは
・辻信一「神戸の疎開空地」     
・川口朋子「京都の建物疎開」
・村上しほり「資料・写真から見る1945年」
でした.

また展示として
・1945/8/18米軍撮影の空中写真
・神戸市疎開空地・焼失区域並戦災地図
以上2つの資料の拡大コピーを見せて頂き,それらとあわせて1945年の神戸の町の姿がどうであったか,建物疎開と簡易貯水槽に着目したお話しを聴かせて頂きました.


当日は同じ,こうべまちづくり会館の地下で竹田眞・永田收合同作品展も拝見することができました.

村上氏のお話で紹介して頂いた写真から.

三宮神社の写真 1945/9
手前の広い道が市電筋.左に神社の鳥居が残っているのが見える.鳥居の左の道はトアロード.神社のトアロード側に塀だけが残っているのがわかる.塀沿いの奥の方,トアロード上に公衆便所があった.
境内右に屋根が焼け落ちて外壁だけ残っている2F建は三宮キネマ.

まさにその部分が地下の展示で,再現されていました.
竹田氏が昭和初期の三宮神社をCGで再現.レンダリングした動画が一部Youtubeで公開されています.
昔の三宮神社には珈琲村があったんだね 竹田眞 by Youtube
右下歯車マークの設定から,再生速度を落としてじっくり見るのをおすすめします.
https://www.youtube.com/watch?v=sAuSuoRhnpg
境内の中の三宮キネマや陳列館,トアロード路上の公衆便所,三宮神社北にはパウリスタビルなどが再現されています.
公的広場のない日本の町並みの中で神社の境内に劇場,陳列,カフェ,飲食,物販が集積し一種の今でいうモール的空間として賑わいの場であったことが伺われます.


日毛本社ビルからみたトアロード 1945/12
縦の道路がトアロード.省線(現JR西日本)東海道線の高架下を通り抜け北野町のトアホテルへと向かう道です.
高架下周辺に集積していた闇市へ向かう日本人たちを,進駐軍兵士が撮影したもの.
左手の屋上に星条旗のたなびくビルは,連合軍が接収中の大丸神戸店.
トアロード左側に先ほどの三宮神社向かいに立っていた建物が見える.
トアロード右側,上方に丸窓のある建物がパウリスタビル(現在も同名のビルがあり,サッカーショップKAMO神戸トアロード店が入居).


三菱銀行三宮支店(現三菱UFJ銀行神戸支店)からみた朝日会館北側付近. 1945/12
土手に囲まれたプール状のものが.これが簡易貯水槽です.
現在のみなと銀行本店西側,三宮町2丁目2番付近.
簡易貯水槽山側に残る壁は歌舞伎座跡.
右奥に見えているビルがそごう神戸店.
高架の向こう側には神戸阪急ビルが見えている.

位置関係を現在の状況で確認してみるとこうなっている.

現在の航空写真 by googleマップ.地名と旧市電路線は私が追記.

ネットで調べると昔の資料がいくつか発見できました.
大正末期-昭和初期の元町・三宮地図 by 月刊神戸っ子1965/10

https://kobecco.hpg.co.jp/wp-content/uploads/2017/05/19651004.pdf

終戦前の三宮町復元図 by 三宮センター街

http://kobe-sc.jp/image/history/pdf/pic_21.pdf


日本毛織本社ビル(長谷部竹腰建築事務所 1937)は現存.2018/12.

三菱銀行三宮支店(1929竣工.1945年から神戸支店)は1987年に建て替えられている.

左が建替前の三菱銀行神戸支店.右が大丸神戸店. 1976年の撮影か?
懐かしの市電市バス写真館 2018/1 より

現在は当時の建物の柱頭飾りが新ビル前に設置されている.


2017/8.

建物の安易な建替は当時も指摘されている.
kobecco 1987/9 p.41 三菱銀行神戸支店のビルを通して「企業が地域に対して持つ責任」を考える 武田則明
https://kobecco.hpg.co.jp/wp-content/uploads/2017/06/19870903.pdf

話を戻しますと,建物疎開は本土空襲に備えて大都市の密集した地域の延焼を防ぐ目的で,あえて先に建物を除去する作戦.

1943/12/21に都市疎開実施要綱が閣議決定され重要都市12都市
東京,横浜,川崎,名古屋,大阪,神戸,尼崎,門司,小倉,戸畑,若松,八幡の各市

自国本土が撤退戦の現場と化してきたことがわかります.

簡易貯水槽とは建物疎開で生じた空地利用を含め,通常の防火水槽(地下式)以外に代用資材(粘土,敲土等)を用いた防火用貯水槽を密集地域に分散配置する施策.

村上氏の報告で1944年の防空総本部技師による簡易貯水槽についての論文が紹介されました.
山内一郎(防空総本部技師)「簡易貯水槽について」(「道路」第6巻第10号(1944))


神戸は敲土(たたき)式 粘土の産出の有無など,地域の実情によって型式は選択されたようだ.

防空総本部という組織は内務省管下の防空に関する事務を担当した行政機関.「行政機構整備実施ノ為ニスル内務省官制中改正ノ件」(昭和18年11月1日勅令第804号)及び「防空総本部官制」(同年月日勅令第806号)を根拠として設置.
「勅令」は天皇が発した法的効力のある命令で,大日本帝国憲法第9条に定められていた法形式.
「防空総本部」by アジ歴グロッサリー
https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0090-0010-0060-0030-0030.html

雑誌「道路」は日本道路協会が現在も発行している雑誌.
https://road.or.jp/dl/index.html

論文著者の山内一郎という人物はこの人のようだ.
山内一郎 by ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E9%83%8E

論文名「掲載誌」肩書き等をネットで検索すると
1913/2 福井県勝山市出身
1936 東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し内務省に入省
1944/4 防空壕「道路」防空総本部技師
1944/5 応急土木工作団の訓練について「道路」防空総本部施設局土木課防空総本部技師
1944/10 簡易貯水槽について「道路」防空総本部技師
1945/11 「戦災都市復興諸問題」座談会「道路」内務省国土局道路課
1947/11 水害から観た道路と都市に関する座談会「道路」内務省河川課
1952/2 アメリカの洪水調節と河川流域処理「土木学会誌」関東地建江戸川工事事務所長
1959/12 伊勢湾台風による災害の概況について「土木学会誌」建設省大臣官房技術参事官
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00034/44-12/44-12-14408.pdf
1960/6コンサルタントの現状について「道路」1960/6 建設省河川局長
1963/10 建設省事務次官 1963年10月18日 - 1965年1月7日
1965/5 今後の道路整備の課題「道路」 日本道路協会理事
1965/7 参院選全国区から自由民主党から出馬し当選(以降連続4回)宏池会(前尾派-大平派-鈴木派-宮澤派)所属
1965/10 論説 政治・行政・技術「土木学会誌」土木学会副会長 参議院
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00034/50-10/50-10-15180.pdf
1970/5 立場について「道路」参議院議員,地方行政委員長
1977/7 参院選で地方区・福井県選挙区から鞍替え出馬し3選
1980/7 鈴木善幸内閣で郵政大臣に就任
1985/3 土木学会名誉会員
http://committees.jsce.or.jp/member/system/files/honor%20List_180731.pdf
1988 竹下執行部で自由民主党参議院議員会長
1989/7 参院選で落選して政界引退
2005/3 死去

技官から事務次官まで昇りつめ,退官後は政界に出て大臣,党参院会長にまでなっているので優秀な人だったのでしょうか.

「神戸市疎開空地・焼失区域並戦災地図」を見ていきましょう.
1923(大正12)年測図の1万分の1地形図に彩色したもの.

凡例から推測される順番,時期は
第1次疎開 1943/12/29
第2次疎開 1944/7臨時県会で決定
第3次疎開 1945/1/20 3,4次は神戸,尼崎だけでなく西宮市,御影町も実施
第4次疎開 1945/3
1945/2/4焼失区域
1945/3/17焼失区域
第5次疎開 1945/4-5 神戸,姫路,明石,尼崎,西宮各市の他,本庄,鳴尾,本山,住吉,御影の阪神間町村も実施
1945/5/11焼失区域
1945/6/5焼失区域

「本庄村史」本庄村史編纂委員会(2008)によると
3/17の神戸大空襲をへて
「3月末完了予定の第4次疎開を中止し急遽第5次疎開の実施を発表した.この疎開は,従来の家屋所有者の承諾印をとってから除去していたのと違い,疎開指定建物の貼紙をしたのち県から譲渡命令をだし,立退期間後に「文句なしにどしどし除却する」強制疎開であった.また,臨時県会や参事会での疎開事業費の議決も持たず,あわただしく実行されることになった.」p.688
とあり4/12の家屋の除却完了をめざして疎開を始めている.本庄村は現在の東灘区青木,深江付近.

「本庄村史」本庄村史編纂委員会 by 奈良文化財研究所
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/19785

これらをみてわかるのは重要施設として指定されているのは
川崎製鉄(現JFEスチール)葺合工場
神戸製鋼脇浜工場
ダンロップ(現住友ゴム工業)
川崎重工神戸工場
川崎車輛(現川重兵庫工場)
三菱重工,三菱電機
鐘淵紡績兵庫工場(空襲で閉鎖-1949神戸競輪場-1970神戸市立中央球技場-2001神戸ウイングスタジアム)
神戸瓦斯(現大阪ガス)西製造所 駒栄町
ライジングサン石油(現昭和シェル石油)
国有鉄道(現JR西日本)鷹取工場







重要施設の地名追記は私.

第1次疎開は川崎製鉄葺合工場,神戸製鋼脇浜工場,ダンロップ,川崎重工神戸,川崎車輌,三菱重工,三菱電機と三ノ宮駅北側
第2次疎開は神戸瓦斯西製造所,国鉄鷹取工場付近他,元町駅山側
第3次疎開 小空地,建物間引疎開 市街地では各街区で1戸程度分散して除去されているのがわかる.
第4次疎開 王子動物園下のテニスコート地帯.新開地から川重本社へ行く広い道,神戸駅山側駅前など.
第5次疎開 鉄道線路隣接,小学校周囲 省線菅原通付近,神戸駅西,天神橋-須磨駅山側,住吉駅浜側

私の育った六甲付近を中心に航空写真(1945/8)と見比べてみたい.

・第3次建物疎開
六甲道駅山側の西側(現在のフォレスタ,灘図書館部分)
浜側のバス道沿い(現在のメイン六甲,みなと銀行付近)
・第5次建物疎開
高羽小学校北側,西側
阪急電鉄六甲変電所北側,東側
成徳小学校北,西,南側
阪神電鉄新在家駅南側(現在は国道43号)




航空写真で確認すると,第5次建物疎開の上記4ヶ所とも実施されているようだ.
現況は高羽小学校北はバス道.西は高羽公園.
阪急電鉄六甲変電所北はビルが建ち,東は今も空き地で自転車置き場として利用されている.
成徳小学校は震災後に建て替えられたが以前は校舎西に不思議な空地があった.

母(1934生)の証言によると後の市電筋常盤木(現山手幹線高徳町)付近も建物疎開だったというがこの地図には記載されていない.昔からの都市計画道路だったので同じ時期に建物を除去したのかもしれない.とすると1943-5年くらいに一気に建物が除去されたのだろうか.戦後は連合軍に接収され飛行場となり,その後は道路として開通し市電石屋川線が延伸された.現在の山手幹線である.

「神戸市疎開空地・焼失区域並戦災地図」では1923(大正12)の地図を元にしていたので人家もまばらだが,1935(昭和10)年にはこのように町が広がっていた.

「今昔マップ on the web」より
ではまた.

[戦況の推移と建物疎開]
1941/10/18 東條内閣発足
1941/12/8 真珠湾攻撃 日本海軍航空隊,アメリカ領ハワイのオアフ島の米軍基地に奇襲攻撃

1942/4/1 川西飛行機甲南製作所 一部竣工して生産が始まる
1942/4/18 日本本土への最初の空襲 東京・名古屋・四日市・神戸など.神戸では兵庫区中央市場付近が被害.
1942/6/5 ミッドウェー海戦 日本海軍は主力空母4隻とその搭載機約290機の全てを一挙に喪失する大損害
1942/8/7-1943/2/7 ソロモン諸島 ガダルカナル島の戦い 日本軍,ガダルカナル島撤退

1943/4/7-15 い号作戦 ガダルカナル島,ニューギニア島を空襲
1943/5/12-5/29 アリューシャン列島 アッツ島の戦い 日本軍守備隊は全滅
1943/9/21 京浜・中京・阪神・北九州の主要都市を防空都市に指定 疎開計画をきめる,建物疎開はじまる
1943/10/12-11/11 連合軍,ラバウル空襲
1943/11/1 防空総本部設置の勅令
1943/11 ギルバート諸島のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が全滅
1943/12/21 都市疎開実施要項 閣議決定 重要都市12都市
1943/12/29 神戸市,疎開第1次 葺合区神戸製鋼所付近134戸の建物疎開を実施
1943/12/29 兵庫県都市疎開実行本部設置

1944/3-7 ビルマ戦線 インパール作戦 援蒋ルートの遮断を目的 参加した殆どの日本兵が死亡
1944/6/15-7/9 マリアナ諸島 サイパンの戦い 日本軍守備隊が全滅 
1944/6/19-20 マリアナ沖海戦 空母機動部隊は実質的に壊滅
1944/6/16 八幡空襲 日本の防空体制の深刻な欠陥が浮き彫りになる
1944/7 臨時県会で第2次疎開決定
1944/7/21-8/11 グアムの戦い 日本軍守備隊が全滅 
1944/7/22 小磯内閣発足
1944/7/24-8/2 マリアナ諸島 テニアンの戦い 日本軍の玉砕
1944/9/15-11/27 ペリリューの戦い 現,パラオ共和国 要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法
1944/9/28 都市疎開実施要領・官庁の地方疎開に関寸関する件 閣議決定
1944/10 防空総本部技師,山内一郎「簡易貯水槽について」 「道路」(1944)
1944/10/10 沖縄大空襲 那覇市の市街地の大半が焼失
1944/10/12-16 台湾沖航空戦 大本営が過大な戦果報告を発表
1944/10/14 ルーズベルト 日本の降伏を早めるためにソ連に対日参戦を促した
1944/10/20- フィリピン レイテ島の戦い
1944/11 グアム島やサイパン島・テニアン島の基地整備に伴うB-29爆撃機での日本本土への本格的な攻撃開始
1944/11/24 米軍,中島航空機武蔵製作所(東京)を爆撃.マリアナ基地による日本本土爆撃の開始.

1945/1/19 川崎航空機明石工場を爆撃
1945/1/20 神戸市,第3次疎開 
1945/2/4 神戸市域に対する初めての無差別焼夷弾爆撃.それまでの空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃から焼夷弾による爆撃へと方法を転換するための実験的焼夷弾攻撃.林田区、兵庫区一帯および湊東区に投下された.
1945/2/4-11 ルーズベルト・チャーチル・スターリン ヤルタ会談
1945/2/19-3/26 硫黄島の戦い
1945/3 神戸市,第4次疎開
1945/3/10- ミンダナオ島の戦い
1945/3/10 東京大空襲
1945/3/13 大阪大空襲
1945/3/15 大都市における疎開強化要綱 閣議決定
1945/3/17 神戸大空襲
1945/4/1 沖縄戦 米軍沖縄上陸開始
1945/4-5 神戸市,第5次疎開
1945/4/7 鈴木貫太郎内閣発足
1945/5/3 神戸沖に機雷投下開始
1945/5/11 神戸大空襲 川西航空機甲南製作所 航空機工場
1945/5/27 沖縄戦 日本軍,首里を撤退
1945/5/31 台北大空襲
1945/6/5 神戸大空襲 野坂昭如「火垂るの墓」
1945/6/23 沖縄守備軍最高指揮官,参謀長自決
1945/7/14 米海軍第38機動部隊が青函連絡船を攻撃し11隻が沈没し北海道が孤立
1945/7/24 川崎車輌,三菱重工業.神戸製鋼所,国有鉄道鷹取工場に模擬原爆投下 プルトニウム型原爆(長崎型原爆)と同重量,同型のパンプキン爆弾
1945/7/26 ポツダム宣言が発表
1945/8/6 広島原爆
1945/8/6 西宮・芦屋・御影市街地 空襲
1945/8/8 ソ連,対日宣戦布告
1945/8/9 長崎原爆
1945/8/15 昭和天皇の玉音放送
1945/8/17 東久邇宮内閣発足
1945/9/2 降伏文書に調印.ポツダム宣言の受諾
1945/9/25 和歌山に米軍上陸開始.10/15までに11,000人が神戸に進駐.






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