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2019年2月10日日曜日

「1945年の神戸」建物疎開・簡易貯水槽と三宮神社付近

先日こうべまちづくり会館で,シンポジウム「1945年の神戸 空から見た戦争と市街地」が開催され私も興味深く拝聴させて頂きました.
登壇者は3名でそれぞれテーマは
・辻信一「神戸の疎開空地」     
・川口朋子「京都の建物疎開」
・村上しほり「資料・写真から見る1945年」
でした.

また展示として
・1945/8/18米軍撮影の空中写真
・神戸市疎開空地・焼失区域並戦災地図
以上2つの資料の拡大コピーを見せて頂き,それらとあわせて1945年の神戸の町の姿がどうであったか,建物疎開と簡易貯水槽に着目したお話しを聴かせて頂きました.


当日は同じ,こうべまちづくり会館の地下で竹田眞・永田收合同作品展も拝見することができました.

村上氏のお話で紹介して頂いた写真から.

三宮神社の写真 1945/9
手前の広い道が市電筋.左に神社の鳥居が残っているのが見える.鳥居の左の道はトアロード.神社のトアロード側に塀だけが残っているのがわかる.塀沿いの奥の方,トアロード上に公衆便所があった.
境内右に屋根が焼け落ちて外壁だけ残っている2F建は三宮キネマ.

まさにその部分が地下の展示で,再現されていました.
竹田氏が昭和初期の三宮神社をCGで再現.レンダリングした動画が一部Youtubeで公開されています.
昔の三宮神社には珈琲村があったんだね 竹田眞 by Youtube
右下歯車マークの設定から,再生速度を落としてじっくり見るのをおすすめします.
https://www.youtube.com/watch?v=sAuSuoRhnpg
境内の中の三宮キネマや陳列館,トアロード路上の公衆便所,三宮神社北にはパウリスタビルなどが再現されています.
公的広場のない日本の町並みの中で神社の境内に劇場,陳列,カフェ,飲食,物販が集積し一種の今でいうモール的空間として賑わいの場であったことが伺われます.


日毛本社ビルからみたトアロード 1945/12
縦の道路がトアロード.省線(現JR西日本)東海道線の高架下を通り抜け北野町のトアホテルへと向かう道です.
高架下周辺に集積していた闇市へ向かう日本人たちを,進駐軍兵士が撮影したもの.
左手の屋上に星条旗のたなびくビルは,連合軍が接収中の大丸神戸店.
トアロード左側に先ほどの三宮神社向かいに立っていた建物が見える.
トアロード右側,上方に丸窓のある建物がパウリスタビル(現在も同名のビルがあり,サッカーショップKAMO神戸トアロード店が入居).


三菱銀行三宮支店(現三菱UFJ銀行神戸支店)からみた朝日会館北側付近. 1945/12
土手に囲まれたプール状のものが.これが簡易貯水槽です.
現在のみなと銀行本店西側,三宮町2丁目2番付近.
簡易貯水槽山側に残る壁は歌舞伎座跡.
右奥に見えているビルがそごう神戸店.
高架の向こう側には神戸阪急ビルが見えている.

位置関係を現在の状況で確認してみるとこうなっている.

現在の航空写真 by googleマップ.地名と旧市電路線は私が追記.

ネットで調べると昔の資料がいくつか発見できました.
大正末期-昭和初期の元町・三宮地図 by 月刊神戸っ子1965/10

https://kobecco.hpg.co.jp/wp-content/uploads/2017/05/19651004.pdf

終戦前の三宮町復元図 by 三宮センター街

http://kobe-sc.jp/image/history/pdf/pic_21.pdf


日本毛織本社ビル(長谷部竹腰建築事務所 1937)は現存.2018/12.

三菱銀行三宮支店(1929竣工.1945年から神戸支店)は1987年に建て替えられている.

左が建替前の三菱銀行神戸支店.右が大丸神戸店. 1976年の撮影か?
懐かしの市電市バス写真館 2018/1 より

現在は当時の建物の柱頭飾りが新ビル前に設置されている.


2017/8.

建物の安易な建替は当時も指摘されている.
kobecco 1987/9 p.41 三菱銀行神戸支店のビルを通して「企業が地域に対して持つ責任」を考える 武田則明
https://kobecco.hpg.co.jp/wp-content/uploads/2017/06/19870903.pdf

話を戻しますと,建物疎開は本土空襲に備えて大都市の密集した地域の延焼を防ぐ目的で,あえて先に建物を除去する作戦.

1943/12/21に都市疎開実施要綱が閣議決定され重要都市12都市
東京,横浜,川崎,名古屋,大阪,神戸,尼崎,門司,小倉,戸畑,若松,八幡の各市

自国本土が撤退戦の現場と化してきたことがわかります.

簡易貯水槽とは建物疎開で生じた空地利用を含め,通常の防火水槽(地下式)以外に代用資材(粘土,敲土等)を用いた防火用貯水槽を密集地域に分散配置する施策.

村上氏の報告で1944年の防空総本部技師による簡易貯水槽についての論文が紹介されました.
山内一郎(防空総本部技師)「簡易貯水槽について」(「道路」第6巻第10号(1944))


神戸は敲土(たたき)式 粘土の産出の有無など,地域の実情によって型式は選択されたようだ.

防空総本部という組織は内務省管下の防空に関する事務を担当した行政機関.「行政機構整備実施ノ為ニスル内務省官制中改正ノ件」(昭和18年11月1日勅令第804号)及び「防空総本部官制」(同年月日勅令第806号)を根拠として設置.
「勅令」は天皇が発した法的効力のある命令で,大日本帝国憲法第9条に定められていた法形式.
「防空総本部」by アジ歴グロッサリー
https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0090-0010-0060-0030-0030.html

雑誌「道路」は日本道路協会が現在も発行している雑誌.
https://road.or.jp/dl/index.html

論文著者の山内一郎という人物はこの人のようだ.
山内一郎 by ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E9%83%8E

論文名「掲載誌」肩書き等をネットで検索すると
1913/2 福井県勝山市出身
1936 東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し内務省に入省
1944/4 防空壕「道路」防空総本部技師
1944/5 応急土木工作団の訓練について「道路」防空総本部施設局土木課防空総本部技師
1944/10 簡易貯水槽について「道路」防空総本部技師
1945/11 「戦災都市復興諸問題」座談会「道路」内務省国土局道路課
1947/11 水害から観た道路と都市に関する座談会「道路」内務省河川課
1952/2 アメリカの洪水調節と河川流域処理「土木学会誌」関東地建江戸川工事事務所長
1959/12 伊勢湾台風による災害の概況について「土木学会誌」建設省大臣官房技術参事官
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00034/44-12/44-12-14408.pdf
1960/6コンサルタントの現状について「道路」1960/6 建設省河川局長
1963/10 建設省事務次官 1963年10月18日 - 1965年1月7日
1965/5 今後の道路整備の課題「道路」 日本道路協会理事
1965/7 参院選全国区から自由民主党から出馬し当選(以降連続4回)宏池会(前尾派-大平派-鈴木派-宮澤派)所属
1965/10 論説 政治・行政・技術「土木学会誌」土木学会副会長 参議院
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00034/50-10/50-10-15180.pdf
1970/5 立場について「道路」参議院議員,地方行政委員長
1977/7 参院選で地方区・福井県選挙区から鞍替え出馬し3選
1980/7 鈴木善幸内閣で郵政大臣に就任
1985/3 土木学会名誉会員
http://committees.jsce.or.jp/member/system/files/honor%20List_180731.pdf
1988 竹下執行部で自由民主党参議院議員会長
1989/7 参院選で落選して政界引退
2005/3 死去

技官から事務次官まで昇りつめ,退官後は政界に出て大臣,党参院会長にまでなっているので優秀な人だったのでしょうか.

「神戸市疎開空地・焼失区域並戦災地図」を見ていきましょう.
1923(大正12)年測図の1万分の1地形図に彩色したもの.

凡例から推測される順番,時期は
第1次疎開 1943/12/29
第2次疎開 1944/7臨時県会で決定
第3次疎開 1945/1/20 3,4次は神戸,尼崎だけでなく西宮市,御影町も実施
第4次疎開 1945/3
1945/2/4焼失区域
1945/3/17焼失区域
第5次疎開 1945/4-5 神戸,姫路,明石,尼崎,西宮各市の他,本庄,鳴尾,本山,住吉,御影の阪神間町村も実施
1945/5/11焼失区域
1945/6/5焼失区域

「本庄村史」本庄村史編纂委員会(2008)によると
3/17の神戸大空襲をへて
「3月末完了予定の第4次疎開を中止し急遽第5次疎開の実施を発表した.この疎開は,従来の家屋所有者の承諾印をとってから除去していたのと違い,疎開指定建物の貼紙をしたのち県から譲渡命令をだし,立退期間後に「文句なしにどしどし除却する」強制疎開であった.また,臨時県会や参事会での疎開事業費の議決も持たず,あわただしく実行されることになった.」p.688
とあり4/12の家屋の除却完了をめざして疎開を始めている.本庄村は現在の東灘区青木,深江付近.

「本庄村史」本庄村史編纂委員会 by 奈良文化財研究所
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/19785

これらをみてわかるのは重要施設として指定されているのは
川崎製鉄(現JFEスチール)葺合工場
神戸製鋼脇浜工場
ダンロップ(現住友ゴム工業)
川崎重工神戸工場
川崎車輛(現川重兵庫工場)
三菱重工,三菱電機
鐘淵紡績兵庫工場(空襲で閉鎖-1949神戸競輪場-1970神戸市立中央球技場-2001神戸ウイングスタジアム)
神戸瓦斯(現大阪ガス)西製造所 駒栄町
ライジングサン石油(現昭和シェル石油)
国有鉄道(現JR西日本)鷹取工場







重要施設の地名追記は私.

第1次疎開は川崎製鉄葺合工場,神戸製鋼脇浜工場,ダンロップ,川崎重工神戸,川崎車輌,三菱重工,三菱電機と三ノ宮駅北側
第2次疎開は神戸瓦斯西製造所,国鉄鷹取工場付近他,元町駅山側
第3次疎開 小空地,建物間引疎開 市街地では各街区で1戸程度分散して除去されているのがわかる.
第4次疎開 王子動物園下のテニスコート地帯.新開地から川重本社へ行く広い道,神戸駅山側駅前など.
第5次疎開 鉄道線路隣接,小学校周囲 省線菅原通付近,神戸駅西,天神橋-須磨駅山側,住吉駅浜側

私の育った六甲付近を中心に航空写真(1945/8)と見比べてみたい.

・第3次建物疎開
六甲道駅山側の西側(現在のフォレスタ,灘図書館部分)
浜側のバス道沿い(現在のメイン六甲,みなと銀行付近)
・第5次建物疎開
高羽小学校北側,西側
阪急電鉄六甲変電所北側,東側
成徳小学校北,西,南側
阪神電鉄新在家駅南側(現在は国道43号)




航空写真で確認すると,第5次建物疎開の上記4ヶ所とも実施されているようだ.
現況は高羽小学校北はバス道.西は高羽公園.
阪急電鉄六甲変電所北はビルが建ち,東は今も空き地で自転車置き場として利用されている.
成徳小学校は震災後に建て替えられたが以前は校舎西に不思議な空地があった.

母(1934生)の証言によると後の市電筋常盤木(現山手幹線高徳町)付近も建物疎開だったというがこの地図には記載されていない.昔からの都市計画道路だったので同じ時期に建物を除去したのかもしれない.とすると1943-5年くらいに一気に建物が除去されたのだろうか.戦後は連合軍に接収され飛行場となり,その後は道路として開通し市電石屋川線が延伸された.現在の山手幹線である.

「神戸市疎開空地・焼失区域並戦災地図」では1923(大正12)の地図を元にしていたので人家もまばらだが,1935(昭和10)年にはこのように町が広がっていた.

「今昔マップ on the web」より
ではまた.

[戦況の推移と建物疎開]
1941/10/18 東條内閣発足
1941/12/8 真珠湾攻撃 日本海軍航空隊,アメリカ領ハワイのオアフ島の米軍基地に奇襲攻撃

1942/4/1 川西飛行機甲南製作所 一部竣工して生産が始まる
1942/4/18 日本本土への最初の空襲 東京・名古屋・四日市・神戸など.神戸では兵庫区中央市場付近が被害.
1942/6/5 ミッドウェー海戦 日本海軍は主力空母4隻とその搭載機約290機の全てを一挙に喪失する大損害
1942/8/7-1943/2/7 ソロモン諸島 ガダルカナル島の戦い 日本軍,ガダルカナル島撤退

1943/4/7-15 い号作戦 ガダルカナル島,ニューギニア島を空襲
1943/5/12-5/29 アリューシャン列島 アッツ島の戦い 日本軍守備隊は全滅
1943/9/21 京浜・中京・阪神・北九州の主要都市を防空都市に指定 疎開計画をきめる,建物疎開はじまる
1943/10/12-11/11 連合軍,ラバウル空襲
1943/11/1 防空総本部設置の勅令
1943/11 ギルバート諸島のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が全滅
1943/12/21 都市疎開実施要項 閣議決定 重要都市12都市
1943/12/29 神戸市,疎開第1次 葺合区神戸製鋼所付近134戸の建物疎開を実施
1943/12/29 兵庫県都市疎開実行本部設置

1944/3-7 ビルマ戦線 インパール作戦 援蒋ルートの遮断を目的 参加した殆どの日本兵が死亡
1944/6/15-7/9 マリアナ諸島 サイパンの戦い 日本軍守備隊が全滅 
1944/6/19-20 マリアナ沖海戦 空母機動部隊は実質的に壊滅
1944/6/16 八幡空襲 日本の防空体制の深刻な欠陥が浮き彫りになる
1944/7 臨時県会で第2次疎開決定
1944/7/21-8/11 グアムの戦い 日本軍守備隊が全滅 
1944/7/22 小磯内閣発足
1944/7/24-8/2 マリアナ諸島 テニアンの戦い 日本軍の玉砕
1944/9/15-11/27 ペリリューの戦い 現,パラオ共和国 要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法
1944/9/28 都市疎開実施要領・官庁の地方疎開に関寸関する件 閣議決定
1944/10 防空総本部技師,山内一郎「簡易貯水槽について」 「道路」(1944)
1944/10/10 沖縄大空襲 那覇市の市街地の大半が焼失
1944/10/12-16 台湾沖航空戦 大本営が過大な戦果報告を発表
1944/10/14 ルーズベルト 日本の降伏を早めるためにソ連に対日参戦を促した
1944/10/20- フィリピン レイテ島の戦い
1944/11 グアム島やサイパン島・テニアン島の基地整備に伴うB-29爆撃機での日本本土への本格的な攻撃開始
1944/11/24 米軍,中島航空機武蔵製作所(東京)を爆撃.マリアナ基地による日本本土爆撃の開始.

1945/1/19 川崎航空機明石工場を爆撃
1945/1/20 神戸市,第3次疎開 
1945/2/4 神戸市域に対する初めての無差別焼夷弾爆撃.それまでの空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃から焼夷弾による爆撃へと方法を転換するための実験的焼夷弾攻撃.林田区、兵庫区一帯および湊東区に投下された.
1945/2/4-11 ルーズベルト・チャーチル・スターリン ヤルタ会談
1945/2/19-3/26 硫黄島の戦い
1945/3 神戸市,第4次疎開
1945/3/10- ミンダナオ島の戦い
1945/3/10 東京大空襲
1945/3/13 大阪大空襲
1945/3/15 大都市における疎開強化要綱 閣議決定
1945/3/17 神戸大空襲
1945/4/1 沖縄戦 米軍沖縄上陸開始
1945/4-5 神戸市,第5次疎開
1945/4/7 鈴木貫太郎内閣発足
1945/5/3 神戸沖に機雷投下開始
1945/5/11 神戸大空襲 川西航空機甲南製作所 航空機工場
1945/5/27 沖縄戦 日本軍,首里を撤退
1945/5/31 台北大空襲
1945/6/5 神戸大空襲 野坂昭如「火垂るの墓」
1945/6/23 沖縄守備軍最高指揮官,参謀長自決
1945/7/14 米海軍第38機動部隊が青函連絡船を攻撃し11隻が沈没し北海道が孤立
1945/7/24 川崎車輌,三菱重工業.神戸製鋼所,国有鉄道鷹取工場に模擬原爆投下 プルトニウム型原爆(長崎型原爆)と同重量,同型のパンプキン爆弾
1945/7/26 ポツダム宣言が発表
1945/8/6 広島原爆
1945/8/6 西宮・芦屋・御影市街地 空襲
1945/8/8 ソ連,対日宣戦布告
1945/8/9 長崎原爆
1945/8/15 昭和天皇の玉音放送
1945/8/17 東久邇宮内閣発足
1945/9/2 降伏文書に調印.ポツダム宣言の受諾
1945/9/25 和歌山に米軍上陸開始.10/15までに11,000人が神戸に進駐.






2018年3月22日木曜日

ハイハイ3人娘 1963年の灘区をぶらぶら

「ハイハイ三人娘」は1963年に公開された映画.
阪急東宝系の宝塚映画の制作で,特に話の設定が関西・神戸だということにはなっていませんが,六甲台や王子公園付近など灘区を中心に神戸・西宮市内各地が登場する.
雑誌「散歩なう201712号」のミニ附録にも掲載したコースです.

まず正門です.ここは神戸大学の正門.映画の中では主人公たちが通う楓高校として神戸大学のいくつかの校舎と,西宮市の神戸女学院でロケが行われています.

映画の監督は佐伯幸三,主演は中尾ミエ,園マリ,伊東ゆかりの3人で高校生役として登場.
他に植木等,ハナ肇,谷啓をはじめクレージーキャッツのメンバーや田辺靖雄,藤山陽子.高島忠夫や,後に日本初のボンドガールとなる若林映子(「007は二度死ぬ」1967)らも教師役で登場.
原作は後の官能小説の巨匠,川上宗薫による青春小説「先生・先輩・後輩」.

1963年という時代は前年に中尾の「可愛いベイビー」がヒットし紅白に初出場,公開時15歳の伊東,園と3人で「森永スパーク・ショー」というバラエティ番組に出演.渡辺プロがスパーク3人娘として売り出されていた頃です.またクレイジーキャッツも1962年に映画第1作「ニッポン無責任時代」が大ヒットし,紅白にも「ハイそれまでョ」で初出場.まさにこの時代の寵児たち総出演といった感じ.

正門右に神戸市バスの神大正門前バス停がある.阪神御影から六甲道駅,阪急六甲経由でこの正門前を通る神戸市バス36系統もこの1963年の営業開始で,ロケ当時はまだ開業前のころ.

神戸大学は1902年に神戸高等商業学校として創立.場所は現在の神戸市中央区野崎通,市立葺合高校周辺.1929年に大学昇格,神戸商業大学となり,1934年にここ六甲台に移転.この正門はその頃にできたものだろう.


正門奥の大階段から,六甲台本館を見上げる.1932竣工.


階段上から神戸中心部方向を望む.


六甲台本館前の3人娘.



説明板によると
 左右対称の建物で,正面中央の上部に時計台,下部に3連アーチ窓と大アーチの車寄せ玄関をもつ.
 西端の経済学研究科長室(非公開)は,1973年まで学長室として使用され,その優雅な内装は見るものを魅了する.1階の北東にある大教室は圧巻.2階には貴賓室,会議室大小12の教室があり,3階は大会議室以外すべて教室.玄関,階段,踊り場の床には市松模様のモザイク・タイルが張られ,目を楽しませてくれる.建物の外壁は淡黄色のスクラッチ・タイル張りである.スクラッチ・タイルは,櫛で引っかいたような縦線の模様をもつタイル.
 軒下のパラペット部分は,ロンバルディア・アーチと呼ばれる小さなアーチの繰り返し模様のテラコッタ張りで仕上げられている.
 設置当初は,「白亜の殿堂」と賞賛された.しかし戦時中は,この美しい外観が仇となる.「白々と空襲目標が山上に聳え立つのは迷惑である」と,周囲住民からクレームが相次いだ.まずは黒い布を垂らして建物のカムフラージュを試みたが効果なし.ついには黒いアスファルトで外観を塗りたくることとなった.垂れ落ちたアスファルトが玄関先を黒く汚し,みすぼらしい姿をさらして敗戦となる.新制神戸大学が誕生した当初も黒塗りのままだったが,今は美しい淡黄色に帰り,往時の威容を取り戻している.

腰壁のタイル


市松模様のモザイク・タイル


階段ホール


階段の手すりも艶かしい感じ.


櫛で引っかいたような縦線の模様をもつタイル

先の説明板で「黒いアスファルトで...」とありましたが,六甲台の眼下にある私の母校,高羽小学校も私が通っていた頃はまだ黒く塗られたままでした.

1972年.今を思えば,この色も戦時中の痕跡だった.


1976年には白く塗り替えられています.

キャンパスの説明板によると,
六甲台第一キャンパスの造成は1930/1/13に開始,翌1931年に新学舎の着工,1932/11に神戸商業大学本館(現:六甲台本館),1933/10に附属図書館(現:社会科学系図書館),1934/6に兼松記念館,1935/1に銃剣道場,1935/3に講堂(現:出光佐三記念六甲台講堂)が順次竣工.

その当時の空撮写真も現地のパネルにあった.
赤字は筆者の追記です.



社会科学系図書館


現在の姿


またまた説明板によりますと
 建物の外壁は淡黄色のスクラッチ・タイル張り,軒下はロンバルディア・アーチのテラコッタ張りである.玄関ホールを入ると開放的な吹き抜け階段が正面に現れ,天井にはステンドグラスのトップライトが静寂の中に光が降り注ぐ魅力的な空間となっている.階段を2階へ上がると正面にメインカウンター,その奥に中山正實作の大作「青春」が出迎えてくれる.
 メインカンターの反対側には「大閲覧室」があり,室内は心地よい緊張感が漂う.高い吹き抜けの大アーチ型天井にはアール・デコのデザインによるステンドグラスのトップライトが施され,重厚で歴史の重みを感じさせる木製の机がずらりと並ぶ.



床下換気口


通気口


搬入口の庇も特徴のあるギザギザ庇.

照明も素敵です.

ではキャンパス内をぶらぶら.

「静粛」に! 24時間,365日授業中のようです.

映画には登場しませんが,このキャンパスには,他にも魅力的な近代建築が揃い踏みしています.


兼松記念館.神戸商業大学商業研究所の施設として建てられました.


出光佐三記念六甲台講堂

貿易港ゆえダリンダリンな意匠の扉.
といっても矢井田瞳ではないですよ!


神戸大学の公式マスコットキャラクター,神大うりぼーですw

工学部を見下ろす.

中央が伊東ゆかり.その右に工学部の建物が見える.

現在は木立が繁り,すぐ下の工学部もちらりと伺える程度.


正門前の道路から西方を望む.神戸市街が見晴らしよく見えていた.

左下の木立に囲まれた台地は六甲ハイツ(進駐軍の住居)跡地.1958年に接収解除され,その5年後の姿.この後,1966年に農学部の学舎ができる.


今は崖下からマンションが建ちこんな感じ.

それでも少し山側の見晴らしの良い公園まで行くと遠く,布引・三宮・ポートアイランド方面が見渡せる.


崖側のガードレール.

リャマが荷物しょって登ってきてもおかしくない階段w 落ちるとただではすまなそう.

バス道より距離は短いので,昔は遅刻間際な学生が駆け登ったりしたのでしょうか.

神戸女学院でのロケ.



映画のストーリーは中尾宛に毎日かかってくる「貴女が死ぬほど好きです」という匿名の電話が誰からのものかを探すという,割と他愛のないもので,懐かしの青春ドラマといった趣の映画です.

その候補として挙がる教師の高島.

高島忠夫とその後をつける伊東ゆかりと園まり.灘区赤坂通2

現在の姿.


高島忠夫が店頭で公衆電話を使っているのを覗き見る2人.

高島が公衆電話をかける商店が林酒店(灘区赤坂通3) 改修されているが,少し山側に当時の姿を留める建物も.


林酒店側から坂道を見下ろしたところ.


勝手口が現存.右の電柱奥の角が,上で2人が覗いていたところ.
坂下から見たところ.素敵な赤屋根の家が残ります.


3人娘の背景の建物は旧関西学院校舎(1929年,西宮市上ヶ原に移転).現在は王子動物園動物科学資料館が建っている.


2017年の同じ坂道.左は王子動物園,右の石垣は王子スポーツセンターの補助競技場.
現地を訪ねたときちょうど女子学生が3人通り過ぎて行きました.こういう偶然が楽しいw
映画の中には他に,表六甲ドライブウェイや六甲山牧場,神戸港新港突堤での場面などが登場します.

2017/12に散歩.ではまた.

神戸大学六甲台キャンパス界隈の歴史
1902 神戸高等商業学校設立(神戸大学の創立)
1929 大学昇格.神戸商業大学となる.
1930 六甲台の新敷地造成工事開始
1932 神戸商業大学本館(六甲台本館)竣工
1933 附属図書館(社会学系図書館)竣工
1934 神戸商業大学が六甲台に移転 兼松記念館 竣工
1935 講堂(出光佐三記念六甲台講堂)竣工
1944 神戸経済大学と改称
1945 六甲ハイツ(進駐軍の家族住宅)の接収
1949 神戸大学設置(神戸経済大学・神戸経済大学予科・神戸工業専門学校・姫路高等学校・兵庫師範学校・兵庫青年師範学校)
1952 六甲台町に町名変更 (旧名称 高羽嘉太夫新田,他)
1952 サンフランシスコ講和条約
1958 六甲ハイツの接収解除
1961 鶴甲団地着工
1963 ハイハイ3人娘 公開
1963 市バス36系統運行開始 阪神御影-六甲台
1966 農学部設置(兵庫県立兵庫農科大学を神戸大学へ移管)
1967 鶴甲団地完成
1968 市バス36系統延伸 六甲台-鶴甲センター
1968 教育学部校舎竣工
1969 鶴甲会館竣工